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新潟県のあゆみ

中世の新潟


奥山荘波月条のようす

 現在の新潟県北部一帯に、奥山荘おくやまのしょうという荘園がありました。鎌倉時代に、関東の武士三浦和田氏が地頭に任命されました。現在の中条町付近を、特に「波月条なみつきのじょう」といいます。鎌倉時代の後半に、三浦和田一族間でここをめぐる相続争いが起こり、その裁判資料として絵図が作成されました。

 

 

 

「色部年中行事の世界」

 室町時代になると、各地に国人領主と呼ばれる実力者が登場します。国人領主の多くは、鎌倉時代の地頭を先祖にもっている武士です。現在の神林村平林に国人領主色部氏の館がありました。色部家に伝わる「色部氏年中行事」という資料から、室町時代の色部氏が行っていた行事がわかります。これを見ると正月・節分・七夕・お盆や各神社の祭礼など、今の行事と共通するものがあります。特に重要なのは、各行事の農民たちがさまざまな役を担って登場することです。領主と農民が一体となって行事を行うことで、領地の支配が実現していたのです。

 

 

謙信の画像いろいろ

 江戸時代になると、謙信は戦国の世を代表する人物として伝説化され、多くの画像が描かれました。謙信の画像は、次の3つの形式に大きく分けることができます。

(1)僧が身につける衣を着て頭巾をかぶった姿

(2)甲冑に身を固めた軍陣の姿

(3)真言宗仏画風の僧侶姿

 

上杉謙信の生涯

 越後の戦国時代は、謙信の父長尾為景によって幕が開かれます。室町時代の越後は、守護上杉氏が支配の頂点にあり、長尾氏はその補佐役でした。ともに国の支配の権限をもつ両者はやがて決裂して、1506年に為景は守護を殺害し、越後は戦乱状態となります。この混乱を統一したのが謙信です。謙信は1551年ころまでに国内をある程度掌握しますが、その後武田氏や後北条氏らの大名に追われた他国の領主たちが、あいついで援助を求めてきたことから、越後国内の軍勢を率いて信州・関東地方、さらに北陸地方で戦いつづけました。謙信は跡継ぎを決めないまま1578年に亡くなります。相続争いをきっかけに越後は再び戦乱の時代に戻ってしまいました。

 

紀州本川中島合戦図屏風

 この屏風は、1992年に和歌山県で発見されました。5度にわたって行われた川中島合戦のうち、1554(天文23)年と1556(弘治2)年の両合戦を描いています。江戸時代前半に、紀州藩御三家の藩祖徳川頼宣の命で描かれたと考えられ、『北越軍記』など上杉方の立場から書かれた書物の内容に沿っています。

 

 

 

※展示替えのため一部資料が入れ替わっている場合があります。詳細はお問合せください。


 

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